ひとりのセラピストのひとりごと

ひとりのセラピストのひとりごと

手に職つけた、ひとりのセラピストのブログ。意識低い系。

人と違うことについて

世の中にはいろんな人がいる。

みんな違うのだ。

考えも性格も人生も100人いたら100通りある。

しかし教育のなかでは「個性を大事に」と言いながら「自分はこうだ」と主張すると否定されることがある。

否定されなくても距離を取られることがある。

「あなたはそうなんだね」と認める文化があまり日本にはない。

他人が自分と違うことを認めようとする人たちは増えてはきているが、まだ少数派だと思う。

特に社会人は「だいたいみんなこういうことをします」みたいな暗黙の決まりがある。

 

正社員で働いて、結婚して子供を作って、家や車を買って、退職したら退職金をもらって自由に暮らして、病気になって病院で死ぬ。

 

半数以上がそんなライフである。

 

教科書的な「これが幸せです」という人生だ。

 

私も人なりにそれっぽい人生をやろうとしているのだけど、そもそも自分の考えや人生を持っているのでやろうとしてもうまくできない。

「これが幸せです」人生は私にとってはとても難しかった。

 

社会人は正社員じゃないやつはダメだ、人生に詰む

男は年収いくらじゃないとダメだ

女は男を否定してはいけない

フリーターはクソだ

会社では上司に意見を言ってはいけない

大学は卒業すべきだ

結婚できないやつはこういう痛いやつ

安定した仕事を得るべき

親の介護どうする

保険どうする

エトセトラエトセトラ

 

自然にそんなルールを刷り込まれているのでそうでない自分はクズだと思ってしまう。

これらの日本人の人生フローに従える人間には適性がある。

みんなが決めたことに疑問を持たずに従うという能力がないとできない。

 

自発的に考えることができる人は向いていないと思う。

夢とか希望を自分から見つけようとしてそれを努力して得ようというひたむきな人は、おそらく違和感を感じてしまうのではないかと思う。

少なくとも私はそうである。

 

 

特に仕事と結婚は最近の私の研究テーマなので色々思うところがある。

 

 

 

安定って何?

 

何を持って安定としているの?皆さん。

 

その仕事を長く続けることが安定ですか?

 

安定って幸せなんですか?

 

同じことをやり続けていたらそれって幸せなんですか?

 

そもそも安定とはなんたるかの定義を持っているの?

 

 

 

 

 

安定なんてないんだよ。

 

常にいろんなことが起きる。それが自然だ。

 

人間は生きていればいいことや悪いことがあって、いろんな人に出会って、新しいことに興味を持つ。行きたいところができたり、食べたいものができたり、興味は常に変わって行くんだよ。

自分の中だけじゃなくたって、世界情勢は常に変わっている。

先進国の大統領が変われば世の中も変わってしまうんだよ。経済だって何が起きるかわからない。新しいレアメタルの鉱脈が発掘されることもあれば、資源が枯渇することもある。

個人だって色んな変化がある。

同じ仕事をやっていても、病気や怪我に罹るかもしれない。できなくなったら仕事を変えなければいけない。

生きていたら災害に遭うかもしれない。日本は火山の島だから地震は後を絶たないし、温暖化で気温が変動しているし、台風だってすごいのがくる。

明日は家が浸水するかもしれない。全壊するかもしれない。そんなのはいくら保険に入っていたって、貯蓄していたって防ぐことはできないのだ。

 

 

安定とは

 

新しい状況に適応する臨機応変な行動力を、個人が身につけることである。

仕事が変わっても、人間関係が変わっても、環境が変わっても

その状況に応じて自己判断し最善を選択する能力のことを、私は安定だと思う。

 

安定は環境が与えるものではない。

自分が適応していくことである。

 

世の中は「仕事に安定を」「生活に安定を」と仕切りに言う人がいるけれど、はっきり言ってそれは安定ではない。

自らの能力を抑え適応を妨げる枷である。

 

結婚も安定とは関係ない。

 

一人で生きるよりも、二人で生きたほうが色んなことがある。

さらには三人になったらもっと、四人になったらもっと

色んなことがある。

新しく起きた人との何かに関わっていく

そういう冒険があるのだと思う。

 

結婚したからといって自分の生活が絶対大丈夫!となるわけではない。

むしろコントロールしにくい他人と一緒に暮らすのだから、リスクは上がるのだ。

自分一人であればいくらでもコントロールできる。お金がなければ我慢すればいい。お金があれば贅沢すればいい。

でも他人が一緒にいたらそうはいかない。他人は他人の考えを持っている。

ここでいう他人とは血縁関係、戸籍を関係なく自分でない人間という意味である。家族だろうが、妻夫であろうがそれは自分ではないコントロールすることが難しい他人なのである。

良い生活をしたいという同じ目標を持って、一緒に生きるパートナーが結婚相手である。女性も男性も、世の中の多数派はリスクとベネフィットを考えてない気がする。

 

多くの人は考えることを放棄しているのだ。生まれつき考えることができない人ももちろんいるだろう。

暗黙のルールに従って生きるのは、考えるという能力が低い人にはとてもよいことだ。

こうすればこのような人生になるという答えが最初から与えられている状態は、日本が平等の国であるという証なのだと思う。

憲法にも「すべての国民は最低限の生活を得られる権利を持っている」というような保証がある。暗黙のルール、みんなが歩む人生は、最低限の生活なのである。

 

 

 

たまにそれができない人がいる。

 

 

 

例えば自由主義者はどうだろう。

一箇所にとどまらず自由に行動する人は、一つの会社に勤めることが困難である。

毎日同じ時間に出社して、同じ場所で仕事をして、同じ人と関わる。

自由を愛する人には極めて困難な生活である。

これもまた暗黙のルールに従うことができない。

最低限の生活の外にいる。

 

 

LDGBはどうだろう。

日本は異性と結婚できるが、同性とは結婚できない。

間違って男性に生まれてきた女性が、女性になろうとするのは大変である。

彼らは暗黙のルールに従うことが困難である。

最低限の生活を得られる権利から逸脱した人たちということになる。

 

 

 

多数派はこういう悩みのない幸せな人たちである。

ただし代償的に考えるということができない。できても量や質が低かったりする。そうでないと暗黙のルールに従うのが難しくなってしまうのだ。

考えたり行動したりする人たちは、自分の人生を選ぶことができる。しかしそれは考えない多数派とは違うものになってしまうのだ。

 

自分の人生を選べるかどうか、考えられるかどうか

それができるかできないかで、教科書的「これが幸せです」人生を得るか得ないかが決まってくる。

考えない人は「これが幸せです」というみんなが決めた幸せ人生を送る。代償的に自分の幸せが何かを知らずに死んでいく。

考える人は自分の幸せを得ることができる。代償的に「これが幸せです」とは違うもになってしまう。とても悩んでしまう。

 

 

暗黙のルールにはこのような決まりもある。

人と違うことはいけないことだ

人と違うといじめられる

人と違うと目立ってしまう

だから考える人たちはときに迷うし悩むことになる。

 

 

教科書的人生には自由がないのだ。

だってやるべきことが決まっている。

他の人と同じなのだから。

 

 

 

一度しかない人生を、自分で選ばなくていいのだろうか?

誰かが決めた、あるいはみんなで決めた「これが幸せです」みたいな人生は、本当に幸せなのか?

自分の幸せは人が決めるものなのか?

 

 

 

みんなが歩む「これが幸せです」という人生は、私にとっては幸せではないかもしれない。

確かに問題が少ないかもしれない。悩みを他人と共有しやすいかもしれない。

でも色々考えて結果的に「これが幸せです」という人生になるんだったらまだしも、最初からそれを目指すのはどうも違うと思う。

それが幸せかどうかは、私が決める。

他人が決めることではない。