ひとりのセラピストのひとりごと

ひとりのセラピストのひとりごと

手に職つけた、ひとりのセラピストのブログ。意識低い系。

治らない病気への興味

私は医療を志し、病む人を癒すべくマッサージ師になった。

鍼灸師資格もあるが、なぜかマッサージからブレない。

鍼灸師になることも考えたが、私はその道を選ばなかった。

気づけば重い患者ばかりを扱っている。

どのくらい重いかといえば、"絶対に"治らないというレベルだ。

 

先月まで働いた病院は精神的にこたえて辞めてしまった。

新しい職場に来たが、ここでも自然と重い患者に会う。

なぜかは分からない。

でも、私には彼らを放っておくことができない。

 

医療系の雑誌やウェブサイトを見ていても、気がつけば読んでいる記事は末期、あるいは生死の淵をさまようような病気の記事だ。

とくに私にとって、ガンは興味をそそられるらしい。

 

なぜかは分からない。

本当に分からない。

それらしい理由を並べてみたが、自分でもなぜ、それほどまでに、心を痛めてまで彼らに接するのか

なぜ側に行こうとしてしまうのか、分からないのだ。

 

一体何が、私をそうさせるのだろう。

私は死に取り憑かれているのだろうか。

 

いや、

生きること

生かすことを考えているのではないだろうか。

 

 

 

人の体は適応していくようにできている。

東洋医学的な考えだが、人間は自然の一部であると、日々感じる。

 

患者は季節に応じて状態が変化したり

きまった気候に悪化する人がいる。

 

 

 

それは理屈や科学は全く役に立たない。

そこにいる人たちが、感じている何かなのだ。

雨の前に予感がするように、彼らは感じているのだと思う。

私たち人間が、自然の一部であるから、としか説明できない。

 

 

治療家は、病を治すことができる。

それは魅力的な仕事だし、素晴らしい仕事だ。

医者は、もっと高度に根本から病気を叩くことができる。

病気という邪を、切り取ったり、薬で弱めたりする。

 

 

治療家や医者は人を治している。

なぜ治るか。

それは治る病、病気だからだ。

 

 

私が興味があるのは、治らない病である。

治るのなら誰かが治す。

でも治らないと分かったら、誰も、どうにもできない。

だからこそ、治らない病を考える人が必要なのだと思う。

治らない病は、もはや病ではないと思う。

そのような状況に、変化しただけ。

例えば足を切断した人は、残った方の足や、義足を使って歩く練習をする。

これは外科的な治療とリハビリテーションだが、内科にも同じ現象がある。

 

糖尿病は、インスリンを打たなければ食事が出来なくなることがある。

腎不全は、人工透析しなければいけないことがある。

それは病ではないと思うのだ。

足が無くなった義足の人と同じように、インスリンが無い、腎臓が無い

ただそれだけのことだと思う。

 

末期ガンも、同じなのではないだろうか。

 

ガンは無尽蔵にエネルギーを吸い取っていく。

できた場所によって、色んな症状が出るが

生命力に応じてガンの勢いも変わる。

患者が弱くなれば、ガンも弱くなる。

それは、同じ生き物の、同じ機構を持っているから。

切り取って終わりなら、とてもいいけれど

切り取りきれなかった、切り取ることすらできなかった

そういう場合は、共に生きる方法を考えなければいけないと思うのだ。

あとどのくらい生きるか

それは誰にも分からない。

たまに余命宣告する医者がいるが、余命宣告ほど当てにならないものはない。

あと半年と言われて10年生きる人だっている。

場合によってはガンが見当たらなくなった、そんな人だっているのだ。

もちろんそうでないこともある。

命を落とす人だって後を絶たない。

だからガンは怖い。

 

ガンが治る時代は来そうである。

医療が発達するとともに、怖くない病気になりつつある。

代わりに今度は別の何かに、私たちは怯えることになるんだ。

 

 

怯える

 

 

それが嫌なんだと思う。

 

 

未知の未来に怯える

死に怯える

 

今がもったいないじゃないか。

 

 

 

いつ来るか分からない死期に怯えないで欲しい。

今、命があることを感じて欲しい。

 

 

 

私はそうありたい。

 

 

見えない何かを想像して怯えるのではなくて

今、確実に手にしていることを喜びたい。

 

 

 

だから私は

マッサージという手段で

患者に会うのかもしれない。

 

 

このいっときのために

私は会いに行くのかもしれない。